高配当株にコツコツ長期投資

書評中心に記事を書いてきましたが、装いも新たに、高配当株投資をテーマに様々なことを書き散らしていきたいと思います。

精米所でのプロポーズについて

その昔、芸人アンタッチャブルの漫才で「プロポーズ」というのがあった。

ザキヤマがプロポーズをしてみたいというのがそのテーマだ。

 

冒頭のボケで、まずどこでプロポーズをしていいかわからないと言い出し一発かます。

 

ザキヤマ「精米所とかだとまずいでしょ?」

柴田「まずいよ!米の音で聞こえねーもん」

 

というやり取りがあった。

 

大変好きなボケで長らく思い出し笑いの引き出しの一つである。

 

それはそうと、先日親戚筋よりお米をもらう機会があった。量はなんと30キロ。家計を下支えする大変ありがたい量である。

 

ただ、精米するまでの米のため、精米所に行って精米をする必要がある。

 

東京に暮らしていたときは、日常生活でお米を生活することなど考えられなかった。

イオンで無洗米を買って終わりである。

 

しかし現在の住居は静岡。ありがたい話がちょいちょい舞い込んで来る。

 

幸いなことに近くにJAがあり、そこに証明写真機のごとく併設されているので、

精米しに行ってみた。

 

料金は7キロgからで100円。30キロ精米しても400円である。

 

まずは、コインをいれ、所定の位置に米をざーっと流し込む。この流し込みが大変に気持ちが良い。ふとショベルカーを運転してみたくなった。でかい機械を操作して砂をいじるのはさぞかし気持ちが良いと思う。素人の戯言だ。

 

その後はボタンを押して精米スタートである。ががががーと一気に米は機械の中へ入っていき順次精米されていく。

 

そして、取り出し口のほうに、米のシャワーは降りしきりうずたかく積まれていく。

 

精米したてのお米はどこかつやつやしていて、湯上り美人を髣髴とさせる。

あとは抱くしかないという風情である。

 

失礼。品位に欠けた。

 

一連のプロセスを経てみて分かったが、精米所でのプロポーズは困難を極めると理解した。もし精米所でのプロポーズを検討していた男性陣がいたとしたら、断念することが懸命な決断となろう。

 

まず、精米中のプロポーズには無理がある。音にかき消されて、思いのたけをぶつけてみても、それこそ糠に釘である。彼女は興ざめしてしまうだろう。

 

それでは、精米前のプロポーズはどうだろう。早く精米後の姿を見たくて、二人ともそわそわしてしまいプロポーズどころではなくなるだろう。

 

最後に精米後のプロポーズだが、あの光り輝くお米の前に人間のプロポーズなどあまりに無力。給与の3ヶ月分費やした指輪が無残に色あせるだけだ。プロポーズなど捨て置いて、一目散に帰宅し、米を炊こう。

 

プロポーズはそれからでも遅くないはずだ。

井山七段と宮本茂の共通点

温故知新という言葉がある。

古くからある故事にちなんだ四字熟語だ。

 

意味の説明はあまり必要ないと思うが、

古いことから新しいアイディアを得るというような意味である。

 

その別のケースについて、今回は考えてみたい。

「新しきを知り、新しきを知る。」

 

今年井山七段が再び七冠に返り咲いた。

 

この間、その秘密を探るべくNHKで特集が組まれていた。

そこでは、もっと強くなろうともがく、名人の姿が描かれていた。

 

井山さんはAIとの対極なども積極的に取り入れている意欲的な人だが、

一番印象に残ったのは、若い世代との囲碁の勉強会に参加していることである。

 

当然格下の人たちばかりなわけでは、「そういう打ち方もあるのか」という発見があるために、続けているという。

 

それを見て謙虚だなあと感心する一方で、恐ろしい人だなと同時に感じ入った。強くなるためならある意味手段を選ばない人である。

 

もう一人「新しきを知り、新しきを知る。」人がいる。マリオの生みの親、宮本茂である。

 

彼は稀代のヒットメーカーといえる存在だが、プライベートでは、地元の町内会の行事などにも積極的に参加する、気のいいおじさんらしい。

 

子供たち=お客さんとじかに接することで新たなアイディアを得たりすることも多いだろうからである。

 

コミュニケーションを直接とれば、何を喜び、何に笑うのか、感じ取ることできる。

 

今保育の仕事をしているが、この間散歩中にユニークな保育士と園児のやりとりがあった。

 

保育士、畑から伸びる葉っぱを見て「あれなんだろう。みかんではないけど、みかんの”仲間”かしらね」

園児「ん?みかんの”知りあい”?」

 

仲間というフレーズを聞いて、知り合いという言葉に言い換えたのだと思うが、「みかんの仲間」という完成品に対して「知り合い」という言葉を持ってくるのは、一見簡単なように思えるが、普通の大人には到底真似のできないことだ。

 

後輩をわが師と仰げる人は幸福なのだろう。園児はものすごい後輩だが。

書を持って、町へでよう ~読書とナンパ論~

かつて「書を捨てよ、町へでよう」と言ったのは、寺山修司だった。

私はここにきて、「書を持って町へ出よう」と強く訴えたい。

 

政治家の不倫や、心無い暴行事件が世の中に溢れているが、

そこに一つの解決策を投じたいと思う。

 

欲望をコントロールし、自らの性欲を飼いならすにはどうしたらよいか。

 

義務教育終了後にどうやってまともな大人になっていけばいいのか?

そこについて今回は考えてみたい。

 

結論から先にいうと、読書とナンパにほかならない。

 

私もまだ30年ちょっとしか生きていないひよっこであるが、やってきて良かったと心から思えるのは、上記の2つである。10代後半以降の生涯学習として、取り入れるべきは、まちがいなく読書とナンパである。大人の義務教育に認定してもいいとさえ思っている。ユーキャンの学習講座を担当したいくらいだ。

 

それはなぜか?まずは読書の重要性から説明しよう。

 

読書とはそもそも何か?簡単にいうと、作者との対話活動に他ならない。基本的には黙読を旨とするものである。声に出して読むのは、大人の知性をはぐくむ上ではあまり効果的ではないといえるだろう。(一方で子供はばんばん音読すべきである)

 

フィクションは、物語に没入し、異なる世界の人々に思いを馳せイマジネーションを養うことができる。

 

ノンフィクションは、世の中の実態を教えてくれ、視野を広げることができる。

 

では、この二つがもたらすものは何か?

 

それは、他者への思いやりを持てることと言語化できる事象が増えることである。

 

現代はSNS全盛時代なので、脊髄反射の典型例のような発言がネット上に飛び交っている。多くの方が経験されていることと思う。

 

たとえば、ホリエモンの保育士は誰でもできる発言に対して、お前が保育士やってみろ

というのは、何も生まない低レベルな反応のひとつといえる。

 

推敲された文章や考えを世に問う人は、プロばかりである。多くの発言は思考なき言葉の炸裂であり、とるにたらないものばかりというのが実情だ。

 

正直、素人の文章は目を覆うものが多い。当然自分のことは棚に上げている。一例をあげれば、ド素人の漫才を見せ付けられるのはある種の拷問である。TVでド素人の歌を聴かされたら、チャンネルを変えたくなるのは人情である。ネットで自由に発言する人はそれくらいみっともないことをしているという自覚を持ったほうが良い。

 

話がそれた。

 

上記二つの能力、他者を慮ることとボキャブラリーが磨かれていくと、他者を許せるようになり、どんどん心が寛容になっていく。さらには、他人を楽しませようという余裕も出てくるものだ。

 

ただ、読書だけだと、教養のレベルはあがるが、内面的な成長にとどまるので、いざというときに役に立たない。別に役にたたなくても良いのだが、犯罪を減らすことを目的にしているので、実社会での実戦を通じたで応用編のほうが重要だ。ではその応用とは何か。

 

続いて、ナンパの重要性についてである。おそらく男性が中心の活動になると思うが、これが非常に重要な営みなのだ。

 

ナンパの重要性を知っている男は、周りも巻き込んでいることと思うが、思いのほか乗ってこないというのが私の感じるところでもある。そういう意味では「同行」をお願いしてくる後輩には勝手に将来性を感じたりしていた。

 

チャラいなと嫌悪感を示す人も多いと思う。俺には到底できないなと思う人もいると思う。

 

ただ、その行動に対して、余りにリターンがある行為なので、ひとまず聞いてみて欲しい。

 

私がはじめてナンパをしたのは、大学生のとき。友人が空腹を満たすため、吉野家に行っている間、暇だったので、となりの女性に声をかけてみた。そんなひょんなことがきっかけだった。渋谷はハチ公前交番での出来事だ。

 

「これからどこにいくんですか?」

「あっコンパなので大丈夫です」

「そうですか」

 

結果は見るも無残な惨敗であった。

「大丈夫です」といわれるのはなかなかつらいものがある。

 

顔はひきつり、ひざはがくがくと震えていた。あの小刻みな震えは、一生忘れないだろう。短パンをはいていたことを心から後悔している。

 

ただあのきっかけをつかんだことがある意味宝物になっている。

 

あれから約10数年。なかには2回声をかけた人がいるかもしれないくらい東京でナンパに身を投じてきた。どうでもいい話だが、ストリートファイトという愛称で楽しんでもいた。

 

ナンパしてみると分かることだが、どれだけ世の中に美人が溢れているかを身をもってしることができる。タレントなどにうつつを抜かさなくても、つまりアイドル等偶像にお金を落とさなくても、世の中には綺麗な人、かわいい人がたくさんいる。

(美人にしか声をかけないというのを厳密なルールとして敷いていた)

 

ナンパをすると、自らの心臓を業火にさらすことができる。メンタル面を鍛えることができる。

 

今まで数々の暴言を浴びせられてきた。

 

「はっ?きもいんですけど」「大丈夫です」「間に合ってます」「無理!」「うぜーな!」「・・・(中指を静かに立てられる)」などなど。

 

打率はたいしたことはなかったが、打席に立った数ならそれ相応だと自負している。

カウントしていないので、分からないけど。。野鳥の会のようにカウントしておけばよかったと後悔している。

 

10年間もやっていると、少々の暴言を吐かれたくらいでは全く動じなくなる。

もはやそれがいいことなのか悪いことなのか分からなくなってきたが、振り返るとプラスの効果をもたらしている。

 

一番の収穫は、なんかあったら「街で声かければいいや」と思えるようになったことである。意味不明な自信が勝手についてしまうので、必要以上に異性を求めなくなる。

副産物もある。異性を徒に求めなくなると向こうからきたりするもので、人生面白いものである。捨てたものではないのである。

 

一見非常にチャラい行為にも思えるが、実は欲望を先送りにすることもつながるのだ。

ナンパという言葉自体が、普及させるのも恥ずかしい感じだが、やった人にしかわからない果実を間違いなくつかむことができる。

 

性に悶々としている人たちよ、身近な人や関係のない人に迷惑をかけている場合ではない。

ナンパもはた迷惑な話だが、犯罪よりはマシだ。自由競争社会に身を投じて、どんどん戦おうではないか。

 

何よりも時間もかからないし、お金もかからない。15分あれば30人くらいに声をかけられる。

 

必要なのはノリとトークのアイディアだけだ。

 

これからも読書とナンパについては、その魅力を語っていきたいと思う今日この頃である。



ジョギングを習慣にする方法

ジョギングを習慣にする方法はなかなか走りださないことである。逆説的ではあるが、そうだと思う。

 

これは何も動かないということを言っているのではない。あくまで走らないということである。まず、歩いている状態をキープするのである。

 

そして、走りたくなったら走る。距離は1キロでも300メートルでもかまわない。むしろ15メートル位走って、また歩き出してもいいと思う。

 

かの所ジョージは、俺は富士山の頂点を目指すのではなく、5合目で売店をやりたいというようなことを過去に発言している。

 

自らのポジションを判りやすく伝えるこの上ない表現だと思う。何もすべての人が高みを目指す必要はない。低地でのんびり過ごす人にも代えがたい価値は生まれるものである。

 

全員がトライアスロンをして、がちがちに走っていたら道路が気持ち悪くてしょうがない。世の中には一定以上のゆるさが必要である。

 

話は飛ぶが、宮沢章夫という作家がいる。本職は劇作家だが、この人のエッセイがなかなかどうして味わい深い。著作の一つに『時間のかかる読書』というのがある。横光利一作『機械』を11年間かけて読み、それについて書くという途方もない作品である。

 

そんなことをし何が面白いの?と問うてくるかもしれない。そういう方は、自分の知性のなさを嘆くべきである。

 

短編に10年以上費やすのは、もはや精読や遅読のレベルでは済まされない。狂気の沙汰である。

 

11年間というタイムスパンには目を見張るものがある。誕生した子供は小学5年生になっているし、ワールドカップは約3回弱開催されている。

 

しかしながら私は、この営みは人間の知性がもたらす素晴らしい取り組みだと思う。

 

わざと遅らせるということは、人間にしかできない。仕事の先送りは褒められたものではないが、文化活動の積極的な先送りは、高度な文化活動の一環といえるだろう。

 

ランニングも同様で、走らなきゃ、続けなきゃと思うから走れない、続かない。

がんばらなきゃという使命感、義務感は決して健康的ではない。

 

気づけばここまで来ていたという状態が理想的である。

だから3日坊主でもかまわない。またやりたくなったらやればいいのである。

 

歩いていさえすれば、いずれ走りたくなるものである。

性に寛容な社会への幕開けに向けて

かつてこれほど浮気・不倫に不寛容な時代はなかったであろう。

 

昔の英雄たちが今の日本を見たらなんというだろうか。まずもって嘆き悲しむに違いないし、「同じ時代に生まれなくて良かった」とほっと胸をなでおろすかもしれない。

 

その不寛容がはびこる要因はなんだろうか。女性進出が進み、声が大きくなったことだろうか。

 

それとも、この競争社会で異性に恵まれず指をくわえている者たちの反逆ののろしなのであろうか。

 

いずれにしても、ここまで不寛容だと国としての存続にかかわっていく問題に発展しかねない。

 

まず認識しないといけないことは、仕事ができる男は、異性にも支持されてしまう。ということである。

 

理由を問うまでもなく、周囲にいる人を見渡して欲しい。仕事ができる人は、異性を魅了する人が多いのではないだろうか。男女いずれにもいえることだが、どちらかというと男性に多い気がする。

 

合意のない状態で性行為へ持ち込むのは、いわゆるレイプ=暴行でこれは断じて許されるべきではない。私自身は暴行犯に対する対処は、極刑か非人間的な労働従事以外にありえないと考えている。

 

一方で、女性はいろいろと言うであろうが、合意の上で肉体関係を持ったのであれば、

それは、本来誰が文句をいうことでもなく、放っておかれるべき事項である。

 

しかしそうは問屋がおろさない。

浮気や不倫が不法行為とみなされるのは、以下の法律が根拠法となっている。

 

「自分の行為が他人に損害を及ぼすことを知っていながら、あえて(故意に)違法の行為をして、他人の権利や法律上保護される利益を侵し損害を与えた者は、その損害を賠償しなくてはならない。また、不注意(過失)による場合も同様である」

民法第709条 不法行為による損害賠償)

 

私自身は、憲法9条の改正を議論する前に、議論しないといけない法の問題の一つにこの民法709条があると思う。

 

正直時代にそぐわないし、こんな法律の妥当性をいつまでも引っ張って大事にしたところで、一部の法律屋のふところが温まるだけである。

 

精力ある男たちにとってみれば(もしかすると一部の女性たちにとっても)、邪魔な壁でしかない。

 

浮気、不倫が不法行為ではなくなり、もっと世の中に火遊びが横行するようになれば、

間違いなく、もっと日本の国力は向上し、世界の国々ともっと対抗していけるようになる。

 

それは、なぜか。性的欲望が満たされることは、明日への活力を養う上で必要不可欠であり、もっといえばもっとがんばろうというエネルギーになるからだ。

 

ガソリンが足りなくなれば車は走らなくなる。男の体も同様である。

多少文章が気持ち悪くなっていることは著者も認識しているので許して欲しい。

 

しかし、そんなことが簡単に通るとは私も思っていない。

そこで提案したいのは、以下のような制度だ。

 

その名も「春一番

素人さんと行為を持つ場合に、一定額を支払い契約関係とするのである。

風俗と何が違うの?という疑問が発生すると思う。

 

風俗に所属している女性たちはいわゆるプロフェッショナルである。著名人にしてみれば、おおっぴらに性産業に参加していることを知られたくない人もいると思う。

 

この制度はあくまで素人さんとの契約関係なので、成立すれば、会社の同僚や友人、町で声をかけた人などに適用できることになる。

 

金額は一律1万円としたい。女性からのアプローチの場合も同様だ。

ただし、この1万円は専用紙幣であり、国が発行する。担当省庁は、経済産業省でいいと思う。

 

専用紙幣の金額は1万2千円。2千円は税金として徴収、国の血液へと変わる。

うまくいけば以下のような世の中になる。

 

男性側がもたらすメリット:たくさんやりたいのでたくさん稼ぐ

女性側がもたらすメリット:より消費が増えるため経済が活性化される

 

万が一流行してしまった場合、一番割りを食うのは、世の主婦たちだと思うが、

まず間違いなく旦那たちはのびのび働くようになるし、温かい目で見守ってほしい。

 

あくまでイチ案なのだが、あながち悪いものではないのではと真剣に思っている。

文春砲が通じない世の中になるので少し寂しい気もするが。

本屋の遊び方

買い物のほとんどはAmazonで済ます。

しばらく本屋には足を運んでいない。そんな人も多いのではないだろうか。

 

私はといえば、本が存在するところならすべてを活用する雑食系である。

電子書籍はあまり活用していないが、それでも2,3冊は過去に読んでいる。

 

今回は本屋の遊び方について述べたいのだが、本をどこで買うかをまずは考えてみたい。

 

まず、欲しい本が決まっている場合。

 

書評を読んで欲しくなる場合、好きな作家の新著、雑誌や新聞の広告を見て、人に勧められて、などがあげられる。

 

これはもうAmazonで買うに限る。

せっかく本屋に足を運んでも、その店になく他店ならというケースも往々にしてある。

これは、非常に残念な思いになる。特にジュンク堂丸善など大型書店で目当てのものが見つからない場合は、人生に嫌気がさすこともあるほどだ。

 

もはや本屋で買う必要などないではないかと訝しがる人もいるかもしれない。

実際にそうやってAmazonに流れている人も多いだろう。

 

しかしそれは非常にもったいないことでもある。では本屋に行く本当の意味とは何か。意味など付与する必要はそもそもないのだが、

あえて述べる。

 

それは、出会うはずのなかった本に出会うために他ならない。もう少し具体的にいうと、「検索できない」書籍に出会うためと言い換えてもいいだろう。これはもはや立派な遊びである。

 

皆さんは本屋で過ごす時間は大体どれくらいだろう。10分程度だろうか。それとも30分以上だろうか。

 

私は言うまでもなく後者である。特に大型書店に行って、15分以内で出てくることはまずありえない。長ければ2時間程度はぶらぶらする。

 

理由は、あまり興味のない棚も含めてじっくり眺めにかかるからである。最近は家族同伴がほとんどなので、雑誌、文庫、新書、一部ビジネスがメインとなっているが、本当ならすべての棚にご挨拶したいというのが本音である。

 

時間がもったいないではないかと思う方もいるかもしれない。むしろ逆で、せっかく書店に足を運んでいるのに、目的の本にしか目を向けないのは非常にもったいない。

 

たとえば、スペインはプラド美術館に行ったのに、知っている絵3枚しか鑑賞しなかったというのに近いレベルである。なんとなく本のタイトルを追っていると、現在の自分に引っかかる書籍に出会うものである。まったくそれがない日もないとはいえないが、大型書店に行って欲しい本がないのは、まだまだ知性のレベルが低いことを表している。

 

大型書店の棚といえど所詮は本屋さんに編集されているごく一部の本に過ぎない。失礼なものいいだが、紛れもない事実である。

 

そういう場合はさらに深堀るためにはどうしたらいいか。それは古本屋か図書館に行くにかぎる。

 

人が読んだものは気持ち悪くて読めないという人は仮に欲しいものがあった場合は、

Amazonで購入すればよいだろう。

 

話を元に戻そう。

本屋に足を運ぶ意味は、出会うはずのなかった本に出会うことであるとは、前に述べたとおりである。

 

実はもう一つ重要なことがある。ちょっと後付けっぽいが、人間観察の目的である。

 

この人こんな分野に興味あるんだというのも、本屋で知ることのできる醍醐味の一つである。むしろ本屋でしか知ることができない情報だ。ターゲットが誰なのかを知ることがビジネスのキーになる人にとって書店めぐりは不可欠な営みである。ほとんどすべてのビジネスマンが対象になるといっても言い過ぎではないだろう。

 

余談であるが、本は購入された後に各自の家に連れていかれ、概ね本棚に収納されることになる。「ふだん何を食べているのか言ってごらんなさい、そしてあなたがどんな人だか言ってみせましょう」と言ったのは、かの有名なブリア=サヴァランだが、こういうふうに言い換えられる。

 

「あなたの本棚を見せてください。あなたがどんな人か言ってみせましょう」と。

 

私はスタートアップやベンチャー企業の成否は、社長の本棚にかかっているといっても

いいと思う。投資判断にも十分に使えるこの上なく有益な情報源である。

 

さあ本屋に遊びに行こうではないか。

週刊文春を熟読してみた。

2017年10月26日発売の週刊文春はどうしたって購入せざるを得なかった。

なぜなら、島田紳助のインタビューが収録されているからである。

 

私は今年で34歳。実際の紳助のファン層はもう少し年上だとは思うが、

私は若い頃から彼の大ファンだった。

 

引退から早6年。文春がまたもや号砲をかき鳴らした。

通常のゴシップのみなら、正直ふーんと流すところだが、島田紳助登場とあっては、

黙ってはいられない。

 

紳助さんの記事に関する感想で言うと、話し言葉を書き起こすのが、うまいなという印象でだ。よく知るファンなら一度は経験があるのが、インタビュー記事のトーンが本人とかけ離れていることだ。好きなので最後まで読むのだが、違和感がぬぐえない記事も少なくない。

 

そういう意味では、さすが文春。人柄がにじみ出るインタビューにおのずと吸い込まれてしまった。元気に遊んでいるようなので、大変安心したというのが本音だ。私は一体何様なのだ。

 

元々目的を果たすと興味を失うタイプの度量の狭い男だが、せっかく普段見向きもしない週刊文春を購入したのだから、今回穴があくほど読んでやろうと決意。決めたら即座に行動したいので、早速読み始めてみた。

 

いくつかのポイントに分けて所感を述べてみたい。

 

・雑誌広告について

普段広告といえばTVCMか新聞広告が多いので、新鮮なものが多かった。表紙裏の広告は、ラグビーのリーチマイケルのインタビューに乗せたZOFFの広告だった。コーヒー好きが高じて府中に自分の店を持っているらしい。こんな情報なかなか知れるものではない。読み物としても面白いものだった。

 

その他構成としては、著名人のエッセイが左のページにあって、右側のページが広告になっていることが多かった。内容は、頻尿を抑えるカプセル、腰が喜ぶ椅子、マンション修繕の駆け込み寺、安心して眠れるグッズ、ファンケル包茎治療、勢力増強剤等

20代30代には縁の薄いものが多そうだ。

 

そして密かに見つけたのが新潮社の広告だ。ときおりやりあっている2社だがそこはビジネス。競合であり、仲間なのかもしれない。

 

・エッセイ・コラムについて

現在14本を収録中。ターゲットは35歳以上という感じである。

 

・目次について

「老けない「最強食」」という記事が一番大きな枠で掲載されていたので、週刊文春のメインターゲットは明らかにシニア層であることが分かる。最後のページに「読者より」というコーナーがあるのだが、最年少64歳、最年長80歳という層である。

 

・ゴシップ記事について

今週号については、約200ページあるなかで約10ページがゴシップ記事、いわゆる文春砲として構成されている。そんなに多くないのかというのが偽らざる印象だ。

 

・書評について

今回は14作品が紹介されていた。

鹿島茂坪内祐三等知的レベルの高い人も満足できる内容の記事も収録されている。

 

週刊文春デジタルについて

ニコニコチャンネルで月額864で利用できるサービス。最新5冊分の記事と動画情報にアクセスできる。マネタイズを二段構えにしている。ネットを袋とじにしている点は新鮮味がある。山尾議員の動画は2000回ほど再生されている。

 

・総評

ほかの週刊誌を読んでいないので、絶対評価になるが、若手層(20代30代)も読んでおいて損はないというのが率直な感想だ。雑学の幅が広がることはまず間違いがない。

年上のかたがたとの会話のネタを仕入れる上でも重宝すると思う。

 

文春はラーメンで例えるなら、京都発祥の新福菜館のチャーハンセットという感じである。文化レベルの低い胃の弱い若手は、心してかからないと油の乗った中年たちの返り討ちに遭う。

 

たとえば、新入社員に文春の魅力と欠点を語れという課題を出してみるのも面白いと思う。