暫さんのふとまゆげ

大嶋暫と申します。なんでもキュレーター。書評を中心に様々なコラムやエッセイを書いております。「肯定の哲学」を紡ぎます。

書評『幼児期』-子どもは世界をどうつかむか-岡本夏木 2005年

人は、成果が保障されていないものを採用する勇気をなかなか持ち得ないものである。

 

教育の方法については、とかくそうで、「東大に3人入れた母親が教える~」のような、実績を出した人の本は話題になりやすいが、本質的で重要な議論でもタイトルが地味な場合などは、手に取る人が少なかったりする。

 

モッテソーリ教育などは、既に実績をあげている立派な方法論かもしれないが、

藤井四段が受けていたということが、モッテソーリ教育への信頼向上にさらに拍車をかけているだろう。

 

本書は、「幼児期」という漠然としたタイトルではあるが、しつけ、遊び、表現、ことばという4つの章から構成される学術書である。

 

タイトルを見る限り目的が明確な新書が世に溢れるなか、

幼児期に子供に教えるべき重要なことは何なのかを丁寧に考察していく思考の軌跡である。

 

著者の問題意識は、現代の能力至上主義を背景とした、なんでも一人でスピーディにできる人間=社会で使える人間という図式への違和感にある。

 

その流れが自然と隅に追いやってしまっているのが、人間本来の対話や人との丁寧なコミュニケーションである。

 

本書を読み進めていくにつれ、普段見過ごしだが、誰しもが本心では重要だと思っていることを再確認することができる。

 

昨今は小さい頃から英会話をやらせたり、プログラミングをやらせたりと、とにかく社会でサバイブすることを重視した教育に重点がおかれていると感じる。

 

親心としては、否定できない側面も往々にしてあるが、そんなことよりも知らないお年寄りとの会話を大切にしたり、地域社会の子供たちに揉まれて実経験を積んでいく。

そんなことのほうが、たくましく自分の頭で考えることができる大人になるには必要なのではないか。

 

これから子育てをする世代も孫を持つおじいちゃんおばあちゃん世代も関係なく、

子育てに生かせる考え方を学べる一冊である。

 

私は、この本を読んで、子供とじっくり会話することを大切にしようと心を新たにした。

立川志らくと竹原ピストルの共通点とキュレーションの今後について

今年の紅白歌合戦は固唾を呑んでみまろうと思う。

なぜか。竹原ピストルが出場するからである。

 

歌声を聴くたびに、本当に歌うために生まれてきたような男なんだと思う。

 

曲を聞き流すことが多い昨今にあってしみじみと歌声に耳を傾けたくなる

稀有なミュージシャンだ。

 

松本人志竹原ピストルあを高く評価しており、少しでも力になれれば

ということで、映画『さや侍』のイベントで彼について語るという場面もあったそう。

 

11月19日付けのワイドナショーでも紅白出場を受けて本当によかったとコメントをしていた。ちょうど立川志らく師匠も出演していた。

 

何がちょうどなのか。

二人とも売れるべき人なのに潜伏期間が長いことが共通点としてある。

 

何をもって売れると定義するかは、議論の余地があるが、竹原ピストル立川志らく師匠は

10年前から激しい脚光を浴びてよかった人々である。

 

良く「世間がついてこない」というようなことが言われたりするが、

がその代表格のような二人だと思う。

 

一方で、首を傾げたくなるのは、若手芸人フースーヤにゃんこスターなどの存在である。

分かりやすくいえば、一発屋が発生し続ける環境への疑念である。

 

突発的なパフォーマンスのよさだけで、身の丈に合わない評価を受けているというのが

実態と言っていいのではないだろうか。

 

人がスターダムに乗ることは、決して悪いことではないのだが、実力のないものを必要以上に持て囃すのは、暴挙である。

 

若者の「バズり」に左右される状況には、そろそろ待ったをかけないといけないのかもしれない。

 

やはり、真に良いものが引っ張りあげられる仕組みはもっと整えていかないいけないだろう。

 

そういう意味では、クラウドファンディングなどはいいシステムだと思うが、

下手をすれば余計なお世話になってしまうリスクもある。

 

これだけ誰でも好きな主張を好きなときにできる時代になぜ本当にいいものが

すぐに出てこないのか?

 

いいものを紹介する人=キュレーターという言葉も誕生しているのに、

なかなか日の目を見ない人が多いのはなぜか。

 

マスに情報を流布すると言う意味では、テレビの力はいまだに強力なものを持っている。

売れるべき人はまずテレビに出るべきだという前提に立って考えてみたい。

 

そうすると、キャスティング権を持つ番組プロデューサーの目にとまらないといけないのだと思うが、ここに一つの大きな壁が立ちはだかってくる。

 

それは、芸能プロダクションという人材供給会社である。

 

日々テレビを見ていて、なぜこの若い女性タレントがこのポジションにと感じることは多い。これは紛れもなく芸能プロダクションの営業力の為せる業であろう。

 

つまり、悪く言えば芸能プロダクションが売り出したい人が売れているというのが、

メディアの世界の現状なのかもしれない。ここに問題の根幹がある可能性がある。

 

では今後本当に売れるべき人が売れるためにはどうすればいいのか。

 

プロダクションとは一線を画す影響力のあるキュレーターやパトロンの存在が不可欠になるだろう。どうすれば、そういうキュレーターが育っていくのか。

 

芸能界における好例としてあげるなら、タモリには赤塚不二夫というパトロンがいた。

しかし、現在は濃密な先輩後輩関係や師弟関係などはあっても明確にパトロンを持つ

若手は少なくなっていると思う。

 

パトロンのなり手がいないのであれば、いいものを勧める評論家の社会的地位の今一度の向上が必要になるだろう。

 

具体的な方策としては、芸能評論の発表の場もさることながら、文章を雑誌、ネット問わずユーザーもプロも読む文化を醸成していかなくてはならない。

 

正直に言って、現在の芸能関連のライターさんたちは、怪しいハンドルネームの人たちも多く、批判的な記事も多いので、なかなか信用できないことも多いと思う。

 

しかし、プレイヤーの数が増えないと業界は盛り上がっていかない。

もはや、芸能評論で財を成すぐらいの人が現れないといけないだろう。

 

まずは、現在活躍するメディア評論家自体をキュレーションするところから始めないといけないのかもしれない。

一日一遊

一日一善ならぬ「一日一遊」を提唱したい。

 

そんなことを思い立ったのは、ルーティンを大切にし始めた30才を超えてからである。

幸か不幸か子供の頃から努力というものをしたことがなかった。運動も勉強もそこそこやれば人並み以上にできてしまった。

 

夏休みの宿題もドリルが配られた当日からやり始め、8月に入る前に終わらせてしまう。この計画性のなさは、非常に罪深かった。これは自慢できることでは毛頭ない。

 

人生に必要なのは、場当たり的な対応力ではなく継続的なインプットから少しずつ質が高まるアウトプットである。人並み以上に何でもできたのに、人並みになってしまった人が言うのだから間違いないと思う。

 

3年受験勉強することより、10年間少しずつ勉強を継続するほうが、結果高い山に上れることは実は言うまでもない事実だ。

 

そこで、恥ずかしい話だが、30過ぎてから継続することの楽しさを知り、恩恵を預かり始めたので、上記のような発想に至ったわけだ。

 

今結婚して第一子は1歳だが、正直自分ひとりの時間というのは取りたくてもなかなか取れるものではない。30代世帯持ちの一番欲しいものは、男女問わず自分の時間であろう。

 

一人になることが財産だと知る。大学時代あんなに一人だったのに皮肉なものである。

ただそれが親になることかと半ばあきらめてもいる。

 

それでは人生を謳歌できないので、一日一遊をこれから実践していきたいと思うに至ったわけだ。

 

遊びの分割払いとでもいえばいいだろうか。まとまった時間を取るのは、大変だが、

細切れの時間を積み重ねることはそんなに難しくはない。

 

趣味というのは何があるだろう。読書、映画、音楽、プラモデル、楽器いじり、一人でできることはほかにもいろいろとあると思う。

 

遊びを分割払いできるなと思い至ったのは、新聞の連載小説を読み始めてからだ。

第一回から欠かさず読んでいるのだが、すでに連載71回を迎えている。気づけば2ヶ月強続いている習慣になった。一日1ページ程度の分量なので、時間に換算すると1分~2分程度だと思う。

 

この連載は、毎朝のちょっとした楽しみになっているが1,2分の投資でできるなら安いものである。

 

これを応用して、毎日15分程度自分の好きなことをやる時間を持つのである。

1週間で105分。月あたり450分。年間で5400分。90時間にもなるのだ。

 

90時間あれば、プラモデルなら何個作れるだろうか。ギターのコードも一日1個でも90個練習できる。本でも新書なら30冊分くらいにはなるかもしれない。

 

遊びの分割払いは、いずれ複利がついて戻ってくると思うのだがいかがであろうか。

おすすめしたい遊び方である。

 

フジTV的バラエティの終焉について

ナインティナインめちゃイケ」ととんねるずみなさんのおかげでした」が来春で終了することになった。「めちゃイケ」は、約20年、「みなおか」は約30年の歴史に終止符を打つ。

 

私はこの事象は、明確なる「フジテレビ的バラエティ」の終焉だと思っている。

なぜこの2大看板は終了したのか?

 

視聴率の低迷ということだが、では視聴率の低迷はなぜ起こったか?

二つの角度から考えてみたいと思う。

 

①タレント依存とターゲット不在の番組作り

②お台場というロケーションの限界

 

まず、①について考察してみたい。

 

この二つの番組には大きな共通点がある。

著名な芸人であるナインティナインとんねるずへの依存度の高さだ。

 

2大マスコットを全面に出して、悪ふざけを容認させていく。

そんな雰囲気がぬぐえない番組である。

 

今でも好きな芸人さんではあるが、ある意味タレントを神格化する番組作りの影響を受けてしまった二組ともいえるだろう。

 

ではフジテレビは今後どうするべきなのか?

移転と番組表の改編が重要になるはずだ。

 

近年のバラエティの大成功例はテレビ朝日加地倫三の手に仕掛けられた番組だと断言できる。代表例は、『アメトーーク!』と『ロンドンハーツ』。

 

特に『アメトーーク!』については、放送日が木曜日の11:15と日曜日の7:00と30代40代がTVを見られる時間帯に放送をしている。

 

正直に言って、土曜日の20:00と木曜日の9:00は一番ビジネスマンたちがTVを見れない時間帯だと思う。なぜか。働いているか飲んでいるからである。この「ビジネスマン」に着目することには理由がある。

 

めちゃイケをメインの文化として育った世代は、現代30代後半くらいまで。みなおか」をメインの文化として育ったのは、現代40代後半くらいまでだろう。

 

つまり、一番強く影響を受けたであろう人たちが見ることのない状態のまま何年間も番組を続けていたことになる。

 

ここで話は飛ぶが、とある二人の成功例を紹介したいと思う。元吉本芸人の島田紳助と作詞家の松本隆である。一見共通点などなさそうだが、二人は口を揃えて、「同世代に照準を合わせて活動していけば、ファンと一緒に年を取っていくので、飽きられることがない」という趣旨のことを発言していた。これは、大きな成功哲学であると思う。

 

今35歳の芸人であれば、同世代が何を笑うのかを研究する。今23歳のシンガーソングライターであれば、同世代が何を感じるのかを研究する。そして、1年経つごとにターゲットの年齢を上げていく。ターゲットの年齢が上がっていかない人は、一過性の人気で終わっていく。

 

先日の『アメトーーク!』のテーマは読書芸人だったが、知性ある大人は男気じゃんけんや、大人の悪ふざけではなく、どうやって豊かな知性を磨いていけばいいか、そこに興味関心が強いはずだ。ターゲットが好むテーマを、次々と企てる加地倫三の手腕には舌を巻くばかりである。

 

冒頭の2番組に大きく欠けていたのは、メインターゲットと一緒に年を取る自覚的な戦略ではないだろうか。ゴールデンタイムがゆえにそれが許されなかった可能性も否めないが。

 

続いて②のお台場というロケーションの限について。

 

私はテレビ朝日テレビ東京の躍進はオフィスが六本木にあることと無関係ではないと思う。フジテレビはその昔、新宿は河田町にあった。歌舞伎町から程近い雑然としたエリアである。今はお台場。地盤は再開発で、ターゲットはファミリー。正直こんなロケーションで面白い番組を作れるほうが奇跡だと思う。『ワイドナショー』や『全力!脱力タイムズ』は現代における奇跡といってよい番組である。

 

では、なぜお台場では駄目なのか?理由は簡単である。飲みにいける雑然とした街が近くにないからである。ゆりかもめに乗っても新橋まで、20分くらいかかってしまう。

 

再開発されたファミリー向けの土地から、文化の香りを立ち上らせることは極めて

難しいことだと思う。夜が盛り上がる街からでないと面白いものは生まれない。

六本木のテレビマンたちは日夜雑然とした居酒屋で酒を飲み、しゃべっている。もちろんフジテレビの中にも日々飲み歩いているツワモノはいると思うが、ある意味「職遊近接」のものたちには歯が立たないだろう。特に「制作」を生業とする人たちにとって刺激的な環境は必要不可欠だと思う。

 

対案として提案したいのは、以下の二つである。

 

①土曜、日曜日の早朝の番組にエース人材を投入し、30代40代をターゲットとした番組をぶつける

②本社もしくは、大きな分室を改めて都内に作る

 

①についてであるが、日曜7:15から放送している『ボクらの時代』は優れたトークバラエティだと思う。優秀なビジネスマンはとかく、平日と起きる時間が変わらないことが多い。

日曜早朝に3人でしゃべっているのを眺めるのは、非常に気持ちが良い。応用の余地はまだまだあると思う。

 

大きなチャンスが眠っているのは、土曜日の『王様のブランチ』がやっている時間だ。

女性にはぶっささる番組だが、20代30代男子にとっては、どうしたって退屈な時間になってしまう。彼女や奥さんとチャンネル権を争うくらいの番組をぶつけてもいいと思う。

 

②については、六本木:テレビ朝日テレビ東京 赤坂:TBS 日本テレビ:新橋

 

というロケーションになっている。再度「京」に上るなら、私は銀座か渋谷がいいと思う。

 

銀座は、30代以降のお金を持ち始めた層が休日を過ごす場所でもある。新橋にも近いし、六本木にもすぐに出ることができる。

 

渋谷もおすすめだ。低年齢化が叫ばれて久しい。ある意味現在のフジテレビと近い課題を抱えていると思う。AbemaTVを伸ばそうとたくらむサイバーエージェントがあるし、東急電鉄は、大人の街に戻そうと死に物狂いで努力をしている企業だ。変革を企てるもの同士力を合わせれば、何か新しいものが生まれるかもしれない。

 

まずは、渋谷のイカセンターあたりで、3社のエース社員が集まって情報交換することから始めてみてはどうだろうか。あながち悪くないと思う。

女性向けの風俗の発展について

日夜文集砲が号砲を鳴らす現代日本。

不倫や浮気の肩身は相当狭いといっていいだろう。

 

不倫をテーマにしたドラマは主婦層に大ヒットとなっている。

 

一方で、今年3月の明治安田生命の調査によれば25歳から34歳のアラサー世代の過半数は結婚を意識した交際の経験がないと分かっている。(有効回答数3296人)

 

乱暴に3つの事例を書き連ねたが、ここから一つの仮説を打ち立てたい。

私は、女性の性がある意味で抑圧されていると見る。

 

皆さんご存知かどうかは分からないが、いつの時代も隠れドンファンは世の中にあまた溢れている。つまり、女性経験が豊富にある男性は相当数いるということである。

 

女性陣はどれくらいの経験人数があると引いてしまうのだろうか。

10人だろうか、それとも50人だろうか。

 

実は3桁以上の経験人数がある男子は意外と身近なところに生息しているものである。ただし、そんなつわものたちが活躍しにくい時代にはなっている。

 

蚊ほどではないにしろ、たまに出会う蜘蛛ほどの割合ではいる気がする。

 

また、40代で50代で財を成し、様々なものをその手に掴んだ男たちもプロを相手にせざるを得ないというのが現状であると思う。

 

そうすると何が起こるか。

一般の30代以降の女性の性が、ある意味ないがしろにされている気がするのだ。

 

おそらくセックスレスになっている夫婦も相当数いるはずである。

私の身の回りにも子供を産んでからというものご無沙汰という例も少なくない。

 

私ごときが心配することではなく、お門違いな話であることは重々認識の上だが、

近い将来女性たちが爆発する気がするので、先に言っておきたいなと思った次第だ。

 

そうなると受け皿が必要である。

と「女性向け 風俗」で検索したところ、すでに存在していた。

 

私の心配は杞憂となった。

 

女性向けサイト「KAIKAN

 

サイトのサービスや記事内容を見るにつけ、新たな問題意識を持った。

 

女性向けの性感マッサージはすでに隆盛を誇っているが、

男性の副業の可能性が女性向けの性サービスには満載である。

 

書評『江戸遊里盛衰記』を読んで

『色道大鏡』という奇書がある。世は、江戸時代、寛永。著者は藤本箕山(ふじもときざん)。

 

1626年に生まれた当時随一の教養人だ。19歳の頃から40年という歳月を費やして、実際し遊里に足を運びまとめあげた。

 

現代になぞらえれば、全国の風俗街に足を運び、自ら体験しレポートとしてまとめる

そんな力業である。つまり、業の深い好事家中の好事家である。

 

本書、『江戸遊里盛衰記』はまず、『色道大鏡』の紹介で始まる。

著者はこの書物をベースにまず問題提起をする。

 

それは、都市部ではなく、『色道大鏡』でもかなり漏れている地方遊里にこそ

歴史に生きた人々に内在する感情や実態を浮き彫りにできるのではないかという考えだ。

 

著者の徹底した取材による、紀行文であるが、登場する遊里は遊里とは結びつかない町もあると思う。1958年の売春防止法後は、消え去った場所も多い。

 

しかし、今は亡き遊里を旅し、どんな町なのかを自分の目で確かめたくなる。

そんな行動を促す魅力を本書は持っている。地図を見ながら読むとよりいっそう楽しめる本である。

 

また、遊里の在り処に港町や鉱山が多いことは非常に興味深い事実である。

大漁や貴重鉱物の発掘に経済が沸く場所に遊里ありといってよいだろう。

 

裏話も興味深い。

税金の約2割を遊里からの上納金に頼っていたエリアもある。

伊藤博文高杉晋作など維新志士の会合の場になっていたという事実も面白い。

 

一方で遊里の負の側面から目を向けようというのは著者の一貫した主張でもある。そもそも、遊女の発祥は実は平家滅亡にあるという説もある。

 

つまり、身を持ち崩した官女たちが生き残っていくために春をひさぐ道を選んだというもの。遊里が出来上がった背景にはどうにも這い上がれない貧困があったと著者は強く主張する。

 

厳しい現実から目をそらさない人を慮る気持ちに裏打ちされた力作である。

 

 

江戸遊里盛衰記 (講談社現代新書)

江戸遊里盛衰記 (講談社現代新書)

 

 

『書き下ろし歌謡曲』阿久悠を読んで

その昔、塾に通っていたころ、皆さんは詞とメロディどちらで曲を選択するか?ということを講師に問われたことがあった。私はそれまで歌詞に注目したことなど皆無だったので、とても新鮮な質問だなと思った記憶がある。

 

私は1983年生まれだが、私よりもう少し上の世代から、現在に至る若手層はどちらかといえば曲のよさで音楽を選ぶ世代であるように感じる。

 

歌詞がいくら良くてもメロディが伴わなければ聴かれることはなかったはずだ。

 

その理由の一つは、音楽が家族みんなで楽しむものから極めて個人的な経験へと変化したからではないだろうか。1979年に一号機が誕生したウォークマンの登場もその変化に一役買っているはずだ。

 

つまり、口ずさむものから耳に直接注入するものへの変化が大きいと感じるのだ。

 

現代人が歌を口ずさむのはカラオケで熱唱するときぐらいで、歌詞を意識するのは極端に言えば、カラオケで歌うときくらいではないだろうか。

 

順番としては、メロディが優れていたときに意識し、買って聞いてみたら歌詞が良かった。そんな順序だったような気がする。

 

1997年の刊行からちょうど20年が経つ。1997年といえば、小室ファミリーの活躍が目立っていた。歌姫といえば、安室ちゃんであり、華原朋美であった。

 

本作は、阿久悠が100曲を一気に書き下ろすという非常に精力的な試みである。

現代では、専業作詞家が100曲書き下ろしてもなかなか新書になったりはしないだろう。

 

著者は歌謡曲が自分にとってのメディアであったという意味のことを記している。

TVやラジオよりも歌謡曲に時代が、そして男女の生態が刻まれていたと。

 

シンガーソングライターという形式が主流となって久しいが、詞から生まれる音楽にはより国民性などが反映されやすい気がする。

 

専業作詞家の役割が重視される時代がまた来るかもしれない。

そうなれば音楽はさらに面白くなるだろう。