高配当株にコツコツ長期投資

書評中心に記事を書いてきましたが、装いも新たに、高配当株投資をテーマに様々なことを書き散らしていきたいと思います。

書評『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』相原恭子 2001年

サーフィンをしないサーファーを「陸サーファー」と呼ぶが、

お茶屋に足を運ばない「花街オタク」も文化としてはなかなか面白い。

 

花街は奥深い魅力を持ち、人に話したくなるエピソード性を持っている。

 

たとえば、モルガンお雪という女性がいる。ブルゾンちえみではない。

モルガンお雪である。

 

歴史上に存在した一人の芸妓だ。なぜ芸名のような名になったのか。

 

J・Pモルガンの甥にあたる、ジョージ・デニソン・モルガンが身請けをしたからである。

同時期、千本座を創設し日本映画の父と呼ばれた牧野省三もお雪と恋仲にあったという。

ある日、身請けされるかもとの相談を持ちかけられた省三が「それは面白い。4万でも5万でもふっかけろ」と回答したところ、後日現実のものとなって新聞紙面をにぎわせることになってしまったという。

 

省三はといえば、その失恋の経験を『モルガンお雪』という題名で舞台で上演し大ヒット。

 

ちなみに、お雪は結婚するも、のちに米国籍を剥奪されフランスに移住。

死後に京都の姉妹都市であるフランスからユキサンと名づけられた白いバラを送られているという。

 

ちょっと人に話したくなるエピソードではないだろうか。

花街はこういう面白い話がたくさんある。

 

そういう意味で本書は、京都の舞妓、芸妓の基礎を学ぶ上で最適な入門書といえる。

 

理由は二つある。

 

一つ目はその辞書性だ。

 

花街文化に関連する言葉を丁寧に説明しているので、

専門用語を網羅的に理解することができる。

 

二つ目は、随所に盛り込まれた写真である。

ひょんなことから花街にはまったという著者であるが、写真を見ると深いところまで、

入り込んでいたのだなというのが分かる。

 

花街はあまりに深い世界ゆえ、関連書籍も夥しい数が出版されている。

正直、何から読み始めればいいか分からないという読者も多いと思う。

 

その意味で、何も知らないが興味はあるという人にとっては、とっつきやすい1冊であると思う。

 

書評『エルメス』戸矢理衣奈 2004年

平均年収400万円の旅館がある。サービス業界にあっては、特異な存在といえるだろう。

神奈川は鶴巻温泉に陣屋という旅館がある。旅館としては珍しく、定休日が週に2日ある旅館だ。客単価は4万5千円となっており、高い生産性を誇る事例として先日、日経新聞に紹介された。

 

エルメスは、誰もが知る高級ブランドだが、非常に高価なことでも知られている。

100万円近くするバッグも珍しくない。

 

両者に共通するのは、ターゲット戦略の巧みさである。

陣屋は、休日を増やしながらも、非日常に対価を支払うシニア層にターゲットを絞り企画を充実させることで業績を回復させた。

 

エルメスの凄いところは、その誕生から今まで、そしてこれからも巧みなターゲット戦略を取り続けているところにある。

 

あるときは、「ケリー」でお姫様願望を持つ主婦層をくすぐり、あるときは、「バーキン」で働く女性たちを刺激してきた。エルメスエルメスたらしめているのは、とにかく高い品質であるとのことだが、その女性を虜にするネーミングセンスも突出している。

 

また本書を読むと、エルメスがいかに京都をはじめとした日本の伝統文化に影響を受けているかが、分かる。スティーブジョブスが禅を愛し、極限まで無駄を省いたデザインで人気を博すiPhoneを生み出したように、エルメスも日本の伝統文化をデザインとして洗練させ商品化することに成功している。

 

日本人はもっと足元の魅力に気づきそれを活かしていかないと、逆輸入された舶来品に

右往左往しつづけることになるのかもしれない。

 

エルメスという圧倒的なブランドへの理解を深めることは、様々な分野のビジネスにおいてもヒントになるが、そもそも自分の国の魅力に気づくことから始めないといけないのかもしれない。

 

余談だが、エルメスルイ・ヴィトンの違いは、どこか京都と東京の魅力の違いを思わせるところがある。実際に、LVMHトップのアルノーさんは、東京の10代女性のファッションを見学に日本を訪れたりするらしい。

 

一方で、一見さんお断りだが、ひとたび入り込むと抜け出せなくなる。

エルメスと京都の魅力は似ているのかもしれない。

 

書評『京の花街「輪違屋」物語』高橋利樹

清水寺を作ったのは誰だがご存知だろうか。

坂上田村麻呂という人らしい。初代の征夷大将軍平安時代に北方征伐に抜擢された

最強の武将だそうだ。

 

歴史にはつい人に話したくなる要素が満載である。

優れた文化についても歴史的背景を伴ったものが多いのは自明の理である。

 

日本文化には、長らく愛されてきたものが多数あるが、最近花街に関する書籍にハマっている。理由は、元マイクロソフト社長の成毛眞さんの影響によるところが大きい。

 

成毛眞といえば、知る人ぞ知る読書家だが、彼の趣味がお座敷遊びであることは、

意外と有名な事実である。

 

私はといえば、お座敷遊びをするような余裕はないので、書籍で楽しむことが関の山

だ。東京に関するものと京都に関するものを読み比べているのだが、

本書は京都の中でも島原にただ一つだけ現存する輪違屋の主人による著作である。

 

元々京都の花街は六大花街と呼ばれていた。

上七軒祇園甲部祇園東、先斗町、宮川町、島原の六つである。

 

それが、少し遠方にあったこともあり廃れた島原が外れ、現在の五大花街と呼ばれるようになった。

 

花街に関する情報が満載なので、詳細は本書を読んでいただきたいが、

本書は文化とは何かを考えるいいテキストとなる。

 

文化の魅力には「人に話したくなる」要素を含んでいることだと思う。

 

たとえば、上七軒は団子を横に串刺した紋章を使っているのだが、それは秀吉が上七軒の茶屋に立ち寄った際に食べた団子が旨かったことで商いの特権を許したことに由来しているという。

 

人に話したくなる要素満載の文化には多くの場合、歴史的背景があるというのは

冒頭に述べたとおりである。

 

誰でも知っていることを話しても、煙たがられてしまうことが多い。その手の情報はgoogle先生がすべて教えてくれるからだ。

 

誰も知らない知識をいかに仕入れていくか。

どんな仕事においても独自性が問われるこれからの世の中において、

ちょっぴりアクセスしにくく魅力的な情報を探りあてるセンスと行動力がもっと問われていくことは間違いないだろう。

書評『京都のおねだん』大野裕之 2017年

チャップリンの愛した味

しゃべってはいけない喫茶店

抹茶パフェ発祥の地

レンタル地蔵で作るお祭り

水にこだわる美容室

 

こんな旅行プログラムがあったら心躍ってしまう人も多いだろう。

 

通常、旅行をする時に参考にするのは、旅行雑誌やウェブサイトが中心である人も多いと思う。本書は、隠れた魅力を見つける京都観光ガイドとなりうる1冊である。

 

著者はチャップリン研究の専門家で京都大学出身だ。生まれは大阪の茨木なので生粋の京都人ではない。

 

本書はその題名の通り、京文化の「おねだん」を知ることで京都への理解を深めていこうという内容の1冊である。抹茶パフェの値段から少し敷居の高い花街の値段まで、京都の様々な文化が紹介されている。

 

各章のテーマについても興味深いものが多いのだが、特筆すべきは、随所に紹介されるこぼれ話である。

 

チャップリンが宿泊した柊家の女将の心遣いやしゃべってはいけない喫茶店、地下水を超音波で見つけるビジネスが実は発達している。などなど。

 

知れば知るほど奥深い京都が見えてくる。

 

文化というものはつくづく、歴史的背景を持ち、人々が大切に守り語り継がれてきたものに宿る本書を読んで思う。

 

そして、つい人に言いたくなる魅力を備えている「文化」こそ、あってもなくても困らない無駄なものということもできると思う。

 

この「あってもなくても困らない」というのが、実は奥深い魅力をかもし出す最大の要因なのではないだろうか。

 

またあってもなくても困らないものを許容することが文化レベルを測る上でのバロメーターになるのかもしれない。とかく批判的言説にまみれやすい昨今だが、一呼吸置いて、対象を許容、肯定する度量を持っていたいものだと改めて思う。

 

優れた書籍は、一流のブックガイドにもなりうるものであるが本書もまさにそうである。

本書でも様々な先人の著作が紹介されているが、さらに京都への理解、日本文化への理解を深める上で、参考になるものが多い。

 

本書は読み通すことで、次に読むべき本まで見つかってしまう素敵な1冊だ。

書評『思想する住宅』林望

家作りは一生の中でもかなりの大仕事だが、それを根本から考え直す一冊。

日本では、家は南向きが良いと無条件に信じられている節があるが、著者はそこから疑ってかかっている。

 

なぜなら、絶望的に夏が暑い日本で快適な住居を求めるならまずは、日光の遮断を考慮しないといけないからだと主張する。

 

著者は、長くイギリスに暮らしていたこともあり、整然と計画された宅地と外観は変えず中身を変化させるイギリス人の住宅に対する合理的な精神を紹介している。

 

その上で、日本の家屋に備えられた機能を丹念に見直していく。

たとえば、ベランダは本当に必要なのか?と。

 

日本の家々とヨーロッパの家の大きな違いの一つにベランダの存在があるという。

ベランダがあることによって、日本人は洗濯物を外に干す。イギリスでは、洗濯物が外に干されていることを見かけることはないという。

たしかに、洗濯物が立ち並ぶ街とそうでない街どちらが景観の美しさが際立つかは、比較するまでもないだろう。

 

また著者は、和室など誰もがなんとなく必要だと感じているものにも容赦なく厳しいまなざしを向ける。

 

要するに、家を建てることは、自分の生活哲学を反映させることであり、考えなしに住んだり、建築家に設計を丸投げをするなど暴挙に近いと著者は述べる。

 

いざ家を建てるという段にならないとなかなか家について考えをめぐらせることはないだろう。

 

人生において何を重視するのか?

家作りを通して見えてくるものは非常に多く、重要なものばかりだと感じる。

 

家作りなどまだ先、またはマンションでいいと思っている人にこそ気づきの多い

一冊だと思う。

 

随所に紹介される写真に付与される著者のコメントも本書の魅力の一つだ。






書評『幼児期』-子どもは世界をどうつかむか-岡本夏木 2005年

人は、成果が保障されていないものを採用する勇気をなかなか持ち得ないものである。

 

教育の方法については、とかくそうで、「東大に3人入れた母親が教える~」のような、実績を出した人の本は話題になりやすいが、本質的で重要な議論でもタイトルが地味な場合などは、手に取る人が少なかったりする。

 

モンテッソーリ教育などは、既に実績のある立派な方法論かもしれないが、

藤井四段が受けていたことが、モンテッソーリ教育への信頼向上に拍車をかけたことは間違いないだろう。

 

本書は、「幼児期」という漠然としたタイトルだが、しつけ、遊び、表現、ことばという4つのテーマで構成される学術書だ。

 

書店などで本のタイトルを見ていると、目的が明確な新書が溢れている。

特定の課題を解決するための書籍も役立つものとして重要だが、本書は長い目で見たときに、子供に教えるべき重要なことは何なのかを気づかせてくれる一冊だ。

 

著者の問題意識は、現代の能力至上主義を背景とした、なんでも一人でスピーディにできる人間=社会で使える人間という図式への違和感にある。

 

力至上主義が自然と隅に追いやってしまっているのが、身近な人との対話や他人との丁寧なコミュニケーションだったりする。

 

本書を読み進めていくと、普段見過ごしがな誰もが本心では重要視していることを再確認できる。

 

昨今は、小さい頃から英会話をやらせたり、プログラミングをさせたりと、とにかく社会でサバイブすることを重視した教育に重点がおかれていると感じる。

 

親心としては、否定できない部分も往々にしてあるが、それ以上に知らないお年寄りとの会話を大切にしたり、地域社会の子供たちに揉まれる経験を積む方が、自分の頭で考えられるたくましい大人への近道ではないだろうか。

 

子育て中の世代も孫を持つおじいちゃんおばあちゃん世代も、子育てに活かせる考え方を学べる一冊である。

 

私は、この本を読んで、子供とじっくり会話することを大切にしようと心を新たにした。

立川志らくと竹原ピストルの共通点とキュレーションの今後について

今年の紅白歌合戦は固唾を呑んでみまろうと思う。

なぜか。竹原ピストルが出場するからである。

 

歌声を聴くたびに、本当に歌うために生まれてきたような男なんだと思う。

 

曲を聞き流すことが多い昨今にあってしみじみと歌声に耳を傾けたくなる

稀有なミュージシャンだ。

 

松本人志竹原ピストルあを高く評価しており、少しでも力になれれば

ということで、映画『さや侍』のイベントで彼について語るという場面もあったそう。

 

11月19日付けのワイドナショーでも紅白出場を受けて本当によかったとコメントをしていた。ちょうど立川志らく師匠も出演していた。

 

何がちょうどなのか。

二人とも売れるべき人なのに潜伏期間が長いことが共通点としてある。

 

何をもって売れると定義するかは、議論の余地があるが、竹原ピストル立川志らく師匠は

10年前から激しい脚光を浴びてよかった人々である。

 

良く「世間がついてこない」というようなことが言われたりするが、

がその代表格のような二人だと思う。

 

一方で、首を傾げたくなるのは、若手芸人フースーヤにゃんこスターなどの存在である。

分かりやすくいえば、一発屋が発生し続ける環境への疑念である。

 

突発的なパフォーマンスのよさだけで、身の丈に合わない評価を受けているというのが

実態と言っていいのではないだろうか。

 

人がスターダムに乗ることは、決して悪いことではないのだが、実力のないものを必要以上に持て囃すのは、暴挙である。

 

若者の「バズり」に左右される状況には、そろそろ待ったをかけないといけないのかもしれない。

 

やはり、真に良いものが引っ張りあげられる仕組みはもっと整えていかないいけないだろう。

 

そういう意味では、クラウドファンディングなどはいいシステムだと思うが、

下手をすれば余計なお世話になってしまうリスクもある。

 

これだけ誰でも好きな主張を好きなときにできる時代になぜ本当にいいものが

すぐに出てこないのか?

 

いいものを紹介する人=キュレーターという言葉も誕生しているのに、

なかなか日の目を見ない人が多いのはなぜか。

 

マスに情報を流布すると言う意味では、テレビの力はいまだに強力なものを持っている。

売れるべき人はまずテレビに出るべきだという前提に立って考えてみたい。

 

そうすると、キャスティング権を持つ番組プロデューサーの目にとまらないといけないのだと思うが、ここに一つの大きな壁が立ちはだかってくる。

 

それは、芸能プロダクションという人材供給会社である。

 

日々テレビを見ていて、なぜこの若い女性タレントがこのポジションにと感じることは多い。これは紛れもなく芸能プロダクションの営業力の為せる業であろう。

 

つまり、悪く言えば芸能プロダクションが売り出したい人が売れているというのが、

メディアの世界の現状なのかもしれない。ここに問題の根幹がある可能性がある。

 

では今後本当に売れるべき人が売れるためにはどうすればいいのか。

 

プロダクションとは一線を画す影響力のあるキュレーターやパトロンの存在が不可欠になるだろう。どうすれば、そういうキュレーターが育っていくのか。

 

芸能界における好例としてあげるなら、タモリには赤塚不二夫というパトロンがいた。

しかし、現在は濃密な先輩後輩関係や師弟関係などはあっても明確にパトロンを持つ

若手は少なくなっていると思う。

 

パトロンのなり手がいないのであれば、いいものを勧める評論家の社会的地位の今一度の向上が必要になるだろう。

 

具体的な方策としては、芸能評論の発表の場もさることながら、文章を雑誌、ネット問わずユーザーもプロも読む文化を醸成していかなくてはならない。

 

正直に言って、現在の芸能関連のライターさんたちは、怪しいハンドルネームの人たちも多く、批判的な記事も多いので、なかなか信用できないことも多いと思う。

 

しかし、プレイヤーの数が増えないと業界は盛り上がっていかない。

もはや、芸能評論で財を成すぐらいの人が現れないといけないだろう。

 

まずは、現在活躍するメディア評論家自体をキュレーションするところから始めないといけないのかもしれない。